フィレンツェの思い出

イタリアのレディスブランドを担当していた時に出張地で出会った財布の思い出です!
ミラノで仕事が終わり、夕方から時間が出来たので商社の担当者と二人でフィレンツェに行った。彼はオシャレなイマドキの若者で、30歳手前と聞いていた。
非常に優秀な担当者で、デザインミーティングの時に大御所のイタリアのデザイナーが一方的に自分の主張をまくしたてようとするのを、私の日本サイドの状況や要求を頭に入れて、途中からその話に割って入る。
相手は自分の話を遮られた事に少しムッとして、はじめは無視して自分のデザイン画を見たりしているのだが、さすがに無視できないというか、彼女の関心のある話題が耳に入ると、一瞬
んッ!?
と、止まって彼の方を見る。
彼はかまわず話し続ける・・・するとその話題と自分の話の内容とを比べて明らかにそちらに興味がある場合は、そこから彼と話し始める。
結果的には私の主張も聞いてくれて、ビジネストークは有意義なものになる。
とにかく彼はまるで全身に目があるような人で、周囲の状況を見ながらポイントは抑え、無駄は切り捨て、急ピッチで結論に向かって全身全霊で通訳してくれた。彼のマシンガントークは、イタリア人も真っ青で小気味が良かった。
本当に優秀な人と思っていたが、その日までプライベートの時間を一緒にする機会は無く、始めてのフィレンツェでもあり、私の期待は膨らんでいた。
フィレンツェに着いて、さあ何処に行くのかと思って彼の言葉を待つと、意外にも
「私はメンズの店を見たいので、1時間後にここで会いましょう!」
と、いとも簡単にフラれてしまった。予期せぬ言葉だったので、気分はだいぶ落ちて
「ああ・・・そうですね、私はレディスのお店見たいですから、一時間後にここで・・・。」
と、言いきるか切らないかくらいの時には彼はもう自分の行きたい方向に身体を向けて、笑顔でうなづきながら歩いて行ってしまった。
本当に無駄の嫌いなビジネス戦士・・・と、ため息とともにあんなに秒単位で効率よく自分の生活も管理していたら、大変だろうなと思った。
以前、ミラノの有名なレストランで商社の彼らと食事をした時、他のテーブルの真ん中にこれから来る客の予約の時間が白い紙に書かれて立てかけられていた。
彼が「あのテーブル、日本人の商社マンが予約したよ、たぶん。。。。」
私がなぜわかるのか聞いた所
「だって、時間が7:45って書いてあるでしょ。イタリア人は15分刻みの約束なんかしないからですよ。人を30分待たせたってどうとも思わないんだから。」
そうか、日本人はどうしてこうも几帳面でゆとりが無いのだろうとその時思ったが、その商社マンの中でも飛びきり優れている彼だから、仕事外のこの時間でも、一秒たりとも無駄にしたくない気持ちは分かると言えないこともないが。。。。
放り出された私はじゃあ、始めてのフィレンツェで何処を見よう?となんとなくメインのストリートを歩いてオシャレなセレクトショップなどを回って行くと、一人歩きというのも確かに気を使わなくて良いと、だんだん気持ちも切り替わって行った。

30分ほど歩いて堅い石畳が少し足に当たるのが気になってきた頃、一軒の白壁にブラウンの木のフレームと扉が落ち着いたオシャレなお財布のショップを見つけた。
外のウィンドウからディスプレイされた商品を見ていると、中から60代後半か70代と思われる婦人が出てきた。
私を見ると少し驚いてはにかんだような笑いを浮かべて、中に入りなさいと手まねきしてきた。中に入って
「ボンジョルノ!」
と言うと、彼女は急にイタリア語で話し始めようとした。
私が、イタリア語はボンジョルノとアリベデルチしか知らないと言うと、まあ、それじゃ仕方ないわね、というジェスチャーをして急に黙ってしまった。
お互いにどうしよう?という空気が流れたが、夫人はどうぞご覧になってと手で商品の棚を指し満面の笑顔を私にくれた。
体つきはとても小さく痩せていて、深い皺がその笑顔には刻まれていた。
しかし、なんて優しく笑うのだろうと思った。まるでその笑顔は私を何年も前から知っている様な、懐かしいものだった。
財布は棚とテーブルの上に一点ずつ等間隔にディスプレイされ、丁寧なデザインと作りはビッグブランドの様な派手な物ではなく、一点一点が彼女の頬笑みの様に可愛くて優しかった。
私はその中の、ブラウンの財布を手に取った。
二つ折りの柔らかい厚手の牛革の財布で、中の裏地は細かいタータンチェックが使われていた。色のコントラストがオシャレで可愛く、二つ折りにした時は革張りのゴツイ金具で真ん中をパンと止める。そのパンという音が小気味よくて、思わず私も笑顔になった。
彼女は手まねきして、部屋の奥にある古い重厚な扉の前に来るようにジェスチャーを繰り返した。そしてその扉を開いて中を見せてくれた。
中には初老の男性が一人で機械の前に座り、黙々と財布を作っていた。どうやら彼女の夫らしい。
彼女とは対照的に太って丸い感じの職人さんで、笑うと彼女と同じ優しさが私を包んだ。私は通じない英語とジェスチャーで、このお店は長いのですか?と彼女に聞いてみた。
夫人はこの土地に長いのか?と聞かれたと勘違いして、精一杯のパントマイムで生まれてからずっとここよ、と言った。
そして、彼もそうよと付け加えた。
若い彼と彼女がこの町で出会い、この店をオープンさせる様子が頭をよぎった。
もっとこの店で彼女と過ごしたかったが、言葉も通じず時間も無くなってきたので、最初に手に取ったブラウンの財布を買った。
彼女はそれを厚手の紙に丁寧に包み小さな紙袋に入れ、あの優しい笑顔とともに手渡してくれた。
時計を見ると、彼との約束の時間ぎりぎりになっていた。
「アリベデルチ!」と笑顔で返して、店を出て振り返ると彼女はまだ店の中から私を目で追い、微笑んでいた。
なんて素敵なお店!なんて素敵な御夫婦!と思った。
約束の場所にはぎりぎりで間に合ったが、商社マンの彼はもうとっくに着いていたんだろう。私を見ると、遅いなという顔をした
手にはビッグブランドの紙袋を持って、シャツとベルトを買ったと言って得意そうな顔をした。
「遅いってどういう事よ、間に合ってるでしょ!だから、日本の商社マンはっ!!」
突然早口の批判が頭の中に広がった。
ああ、また私の企業戦士の続きがはじまった。
彼は私が時間に間に合っているのに、それを責めたような自分の態度を反省したのか、今度は商社マン独特の社交辞令的な聞き方で、私の持っていた小さな無地の紙袋を指差した。
「何を買ったんですか?」
「大した物では無いわ。」
彼にあのショップの事を話した所で、何の反応も無いだろう。私の彼に対する気持ちは、この1時間ですっかり変わってしまったようだった。
東京の雑踏の中で働く私達は本当に幸せなんだろうか?
そんな疑問がさっき別れた老夫婦の小さな店の風景とともに頭に浮かんで、気持ちがざわつくのを感じた。
その時、静かな広場に大音量の夕時の鐘が鳴り響いた。

私は夢から覚めたようにその大きな鐘の音を身体全体で聞いた。
なんて深い音色だろう?
すると、商社マンの彼も子供の様な顔をして
「ああ、だから僕はフィレンツェが好きなんですよ。」
と言って、微笑んだ。その顔は私が知らない横顔だった。
「さっきね、素敵な店を見つけたの。可愛いお財布の店でね・・・・」
私も一度は閉ざしてしまった心がその鐘の音とともに開かれるのを感じた。彼がこの貴重な時間を私にプレゼントしてくれたんだっけ。
物事は一方方向からだけ見ていてはいけない。かたくなだった心は春の雪の様にとけて行き、鐘の音と素直な彼の横顔と一緒に私の思い出に刻まれた。
私達は東京であくせく働く企業戦士だ。でも、時々は思い出したいんだ。一つ一つ手造りで作られる財布の暖かさや全身を震わせる大音響の鐘の音を、それが持つ感動がどれだけ自分の心を癒してくれるかを。
その財布はパンと良い音のする留め金が壊れて使えなくなるまで、私と一緒の時を過ごした。
不思議と使うたびにあの婦人の優しさを身近に感じるような気がして、フィレンツェを懐かしく思うのだ。